コムデギャルソン ― 「薔薇と血」で目覚めた、私の“黒”と“自由”
- baseimayoshi
- 8月28日
- 読了時間: 4分
更新日:9月11日
大学生のときに得た衝撃
あれは大学生の頃、何気なくパリコレクションを眺めていたときだった。
目の前に広がっていたのは、COMME des GARCONSの2015年春夏コレクション「薔薇と血」。
赤。赤。赤。ランウェイを覆うような真紅のルック。
華やかな薔薇が咲く一方で、そこには血の赤も滲んでいる。
美と痛みを一つの服に閉じ込めるようなその表現に、私は息を飲んだ。
そのとき心の中で強烈に思った。
「洋服って、こんなにも自由で、こんなにも表現できるものなんだ」
それまで私にとっての服は「似合うかどうか」「流行っているかどうか」でしかなかった。
けれど、この瞬間に価値観はひっくり返った。
服は飾りではなく、思想を宿すことができる。
問いを投げかけることができる。――それを初めて知ったのが「薔薇と血」だった。
「美」と「痛み」を同居させるという挑発
「薔薇と血」のルックは、美しいのにどこか恐ろしかった。
薔薇は華やかさの象徴であり、血は暴力や痛みを連想させる。普通なら切り離される二つを、コムデギャルソンは一つの服に共存させた。
私はそこに人生そのものを見た。
幸せだけの人生なんて存在しない。
喜びと同じくらい、痛みや矛盾も抱えて生きている。
だからこそ、矛盾を含んだ美こそリアルであり、力強い。
それ以来、私は「美しいかどうか」ではなく「何を問いかけてくるか」で服を選ぶようになった。
黒を着続けるという意思
「薔薇と血」の赤に衝撃を受けたあと、私が選び続けるようになったのは“黒”だった。
黒は無難な色ではない。私にとっては、「矛盾を抱えても立ち続ける意思」を表す色だった。
黒には二面性がある。孤独や不安を孕む一方で、強さと静けさをもたらす。
華美さを削ぎ落とし、最後に残る「核」だけを浮かび上がらせる。
私は黒を着ることで、流行や他人の目ではなく「これが自分だ」と選び取ることができた。
毎日黒を纏うのは、私にとって挑発であり決意であり、自由を守るための行為なのだ。
コムデギャルソンから学んだこと
コムデギャルソンは、ただ服を生み出すブランドではありません。
川久保玲はいつも、服を通して「問い」を投げかけてきます。
美とは何か?
服は何のためにあるのか?
あなたは矛盾を受け入れられるか?
私はその問いに揺さぶられ、時に立ち止まり、また前へ進んできました。
仕事で挑戦することを選んだときも、理解されなくても進む勇気をくれたのはコムデギャルソンでした。
だから私にとってギャルソンは「ブランド」ではなく「生き方」そのものです。
赤の衝撃から黒の決意へ
2015年春夏「薔薇と血」は、私にとって人生を変えた瞬間でした。
赤の衝撃は「服は表現であり、問いかけである」と教えてくれました。
そしてその体験が、今も私を黒へと導き続けています。
コムデギャルソンが挑戦をやめないように、私も挑戦をやめません。
矛盾を抱えながらも、自分の色で立ち続ける。その決意が、私が黒を着続ける理由です。
あなたのギャルソンにも、次の物語を
私にとって「薔薇と血」や黒の服がそうであったように、コムデギャルソンの一着一着には、ただの衣服を超えた物語が宿っていると思います。
袖を通した瞬間の衝撃、着続けた年月、そこに刻まれた記憶――。
それは持ち主の人生そのものです。
けれど、どんなに大切な服でも、ある時から袖を通さなくなる瞬間は訪れます。
そのとき、その服は役目を終えたのではなく、「次の持ち主へと物語を渡す準備をしている」のだと私は考えています。
とりわけコムデギャルソンを中心に、大切に着てきた服を理解できる人へ繋げていきたいと考えています。
ギャルソンの服は流行ではなく思想を纏うからこそ、手放してもなお新しい誰かの人生を刺激し続けられるのです。
もしクローゼットの奥に眠るギャルソンがあるなら、その服に込めた想いごと、ぜひBASE Loopに託してみてください。
あなたの服にも、きっと新しい舞台が待っているはずです。





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