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ドメスティックブランドの象徴 ― yohjiyamamotoが黒に託した哲学

  • baseimayoshi
  • 9月3日
  • 読了時間: 4分

更新日:9月11日

赤の衝撃と、黒の覚醒

10代の頃、私はファッションを


「似合うかどうか」

「流行っているかどうか」


でしか見ていなかった。


だが、あるコレクションを目にした瞬間、その認識は一変した。


コムデギャルソンの2015年春夏「薔薇と血」。

燃えるような赤。

咲き乱れる薔薇の華やかさと、血のような深紅の痛み。


美と苦悩を同じ布に閉じ込めるそのルックに、私は呼吸を奪われた。


「服は、こんなにも自由で、こんなにも表現できるものなのか。」

そのとき心に刻まれた衝撃は、今でも色褪せない。


しかし、赤はあまりに激しく、私を常に揺さぶった。

問いかけ、挑発し、落ち着きを許さない。

そんな赤の余韻の中で、私はもう一つの色に出会った。


それが、黒。


黒は沈黙を纏う

ドメスティックブランドの象徴と呼ばれるにふさわしいのが、yohjiyamamotoだ。


1981年、黒一色でパリを震わせたコレクションは、世界のファッション史を変えた。

当時は「ヒロシマ・シック」と嘲笑されながらも、やがて「黒の哲学」として確立され、ドメスティックブランドの在り方を国際舞台に突きつけたのだ。


彼の黒は、沈黙を纏っている。声を荒げず、ただそこにある。派手な装飾を拒み、布と身体の関係だけを突きつける。


黒は誇示ではなく、覚悟だ。「世界をどう見せるか」ではなく、「自分がどう立つか」を問う色だ。


黒が習慣になるまで

気づけば、私のクローゼットから色が消えていった。

青も、緑も、赤さえも。残ったのは黒ばかり。


けれど、それは不自由ではなかった。むしろ、自由だった。

朝、服を選ぶときに迷わなくなった。「今日はどの黒を着るか」と考えるだけで済む。

その単純さが、日々の決断の疲れを削ぎ落とし、思考に余白を与えてくれる。


黒は沈黙する。

だからこそ、心のざわめきを静める。

社会の喧噪から一歩引き、自分の輪郭を取り戻させてくれる。


私にとって黒は、戦うための武装ではなく、安心して呼吸するための空気だ。

そしてその気づきは、ドメスティックブランドが私に与えてくれた最も大きな贈り物でもある。


yohjiyamamotoの哲学

「黒は謙虚であり、反骨であり、そして自由だ。」


彼の服は、流行を拒絶する。

そのときどきのトレンドに乗るのではなく、時代から距離を置くことで、むしろ普遍性を手に入れる。

女性を覆うゆったりとしたシルエットは、「隠す」のではなく「解放する」。

男性の視線に縛られることなく、ただその人の存在を肯定する。


その思想は、私のファッション観を根底から変えた。服は飾りではない。服は、生き方を選び取るための哲学なのだ。


この思想が、ドメスティックブランドが世界で存在感を放つ理由だと私は思う。


赤と黒の対話

私にとって、コムデギャルソンの赤とヨウジヤマモトの黒は、両輪である。


赤は爆発だ。

「世界をひっくり返せ」と叫ぶ。

挑発し、衝撃を与え、心を揺さぶる。

黒は沈黙だ。

「世界を黙らせろ」と囁く。

問いに答えず、ただ静かに佇む。


赤がなければ、私は服の可能性を知ることはなかった。

黒がなければ、私はその問いに押し潰されていただろう。


両者があって初めて、私のファッション観は形になった。そしてその両者とも、ドメスティックブランドが世界に示した強烈なメッセージでもある。


黒を着るという選択

黒を着続けることは、ときに奇異に映る。


「なぜ同じ色ばかり?」と問われることもある。


だが、私にとって黒は「制約」ではなく「自由」だ。

余計な色を削ぎ落とした先に、自分が残る。

黒を纏うことで、私は私に戻ることができる。


Yohji Yamamotoが教えてくれたのは、黒は“無”ではなく“力”であるということ。

その力に守られる限り、私は流行に惑わされず、ただ自分の生き方に集中できる。


これは単なる個人的な習慣ではない。

ドメスティックブランドが世界に突きつけた「黒の哲学」を、私は日々の暮らしで実践しているのだ。


終わりに

赤は問いを与えてくれた。黒は覚悟を与えてくれた。

ファッションは単なる衣服ではない。それは思想であり、生き方であり、沈黙の中に潜む自由の証明だ。


そして今、私は黒を纏う。

それはYohji Yamamotoというドメスティックブランドから受け取った、唯一無二の“生きる哲学”だからだ。

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